余生
ニッポン放送。
そこは私の人生が始まり、またある意味終わった場所でもあった。
この日、私は上京して以来、初めて有楽町に足を運んだ。
山手線に揺られ着いた駅から歩いて5分くらいだろうか。
オフィス街の一角に立つそれは他と比べても全く遜色の無い普通のビルだった。
しかし、ニッポン放送の看板が目に飛び込んできた瞬間、
込み上げる思いとその偉大さに思わず足がすくんでしまった。
ここがあのニッポン放送か。
思えばたくさんの夢を見させてもらった。
いくら感謝してもしきれない。
あの時の数々の思い出が走馬灯のように頭を駆け巡った。
何も知らない田舎者の私が、こんな大都会のど真ん中に立つビルで
期間としてはわずか一年程だったが、携わせてもらった。
それはとても幸せなことだった。
それから幾年が過ぎた。
気付けばあの時以来、心にぽっかりと空いた穴は今も埋まらないまま、
実に2年の月日が過ぎようとしていた。
自分の中での人生のピークは深夜ラジオの投稿者として活動していた15〜18歳の間の3年間だけで、
大学受験を期に辞めて以降、
僕の人生のグラフは見事なまでに下降線を辿っていた。
大学受験こそはそのときの勢いのまま気合いで乗り切ったものの、
それ以降は、まるで既に人生の集大成を迎え、余生を如何に生きるかを考察しながら日々を送っているような、
何もない、ただただ食べて寝るだけの毎日を意味していた。
華やかだったときを思い出しては嘆き、懐かしんでは嘆きを繰り返すだけの日々。
ラジオ番組で常連になり、作家さんやパーソナリティーに名前を覚えてもらい、名指しされるまでになること。
また、できるだけ多くのパーソナリティーに自分の名前を読んでもらうことが夢であり、
最大の目標だった私にとって、有り難いことにそれはある程度叶ってしまった部分があり、
今もこうして音源として残せていることにこの上ない喜びを感じている。
しかし、それ以降の夢や目標といったものが全く出て来ず、
何をやっていてもあの時以上に熱く物事に打ち込むことができなかった。
この歳にして人生飽和状態になってしまったというのだろうか。
何もない『無』の日々が続く。
今はそういう時期なんだと自分に言い聞かせても、
1年後も、2年後も、10年後も、50年後もそう思っている気がして怖かった。
何のために生きるのか。
何のために働くのか。
何のために大学に行くのか。
何もかもがわからないまま食べて寝るだけの日々を過ごしていることがおこがましくも、歯がゆくも情けなくとも思えた。
交差点の信号で止まっていると、
今、飛び出したら楽になれるんじゃないかななんて悪魔の囁きが頭を過ぎることもあった。
そもそもイクタリョウスケという人間が一体何なのかさえわからない。
本当に存在しているのか。
何のために存在しているのか。
何をするために存在しているのか。
考えれば考えるほど気が遠くなる。
宇宙に果てはあるのかと考察する際のそれと同じような感じだ。
イクタリョウスケって何?
これは後期が始まって初めて出た講義での話。
教授は教壇に立つなり、数名の学生の名前を読み上げ始めた。
ぼーっとしながら聞いていると、
途中で『…イクタリョウスケくん』と呼ばれたような気がした。
気がしたも何も、教授の口によって自分の名前が読み上げられたのには間違いはなかった。
しかし、信じられないことに、そのとき僕は自分が『イクタリョウスケ』という名前の人間であることを瞬時に認識することができなかった。
少し間を置き、考えたところではじめて「ああ、そういえばイクタリョウスケだったっけ…」と解することができたのだ。
今読み上げた学生はあとで私の所まで来なさいと言っていたので、
講義終了後に寄ると、どうやら前期のテストの点数が余りにも低過ぎるとのことだった。
「キミ、このままじゃ単位あげられないよ?」
「あ…はあ。」
「通年だしね、落としたら痛いよ。」
「まあ…はい。」
結局、追加でレポートを提出することになった。
名前とは言うまでもなく親から与えられるもので、本人に何も選択権などなく与えられるものである。
が、未だに私は自分の名前を言う際に違和感を感じることがある。
名字と名前を言い切った際の何とも言えない感じが気持ち悪い。
だから何だって話だし、『イクタリョウスケ=私』という等式がどうも理解できない。
それは普段、日本人が『私は日本人だ』と常に意識して生きているわけではないことと同じで、
『私はイクタリョウスケだ』と意識をして日々の生活を送っていないことからも言える。
しかし、それを考慮するにしてもやはり私には自分の名前が何なのかを受け入れることができなかった。
結局、名前って何なの?
これもまた現在、私を悩ませている項目の一つだ。
いくら思考を凝らしたって答えなんか見つかるわけないのに、
今日もまた私は悩み続けるのである。
ぽっかりと空いた心の穴を少しでも埋めるために。