もう一度、陽の目を見たい。
脚光を浴びたい。
この半年間、ある事情によりアルバイトと授業だけの平凡な生活を送ってきたが、
矢張り、何にも刺激のない素っ気のない毎日はどこか物足りない。
昔のような葛藤する楽しさが何にも無いのは辛い。
勿論、あのときも辛いことは色々あった。
不振が続き、自暴自棄になったり。
だけど、同じ辛さでも今の辛さはあのときの辛さとは比にならないほど辛い。
あのときの辛さは目標や情熱の高さが伴ったものによって生じたものであったから、
自分にとって痛くも痒くも無かった。
むしろ、闘争心や自前の負けず嫌いに火がついてよりのめり込んだものだ。
それに引き換え現状はどうだろう。
何のために今日があるのか見失うくらい人生の意味を忘れている。
今思うと異常だったのかもしれないが、
あのときの自分は、ジャンルが違えども高校球児が甲子園を目指して練習に打ち込むのと同じで、
ただただ『自分の生きた証を残したい』『有名になりたい』『一人でも多くのパーソナリティーに名前を読んでもらいたい』
その思いでひたすらラジオを聴いて、ネタを分析して、研究して、馬鹿な頭をフル回転させてネタを作り、投稿をしていた。
でもこれならまだ一趣味の範疇に収まっているからなんら問題は無かった。
キャリアを重ねるうちに途中で卑しい心が芽生えてしまったのが悪かった。
番組で自分の投稿が採用されだした事で、
変に支持されたりモテたりしたことをきっかけに、後の自分の人生をも左右する屈折したプライドが出来上がってしまった。
自分は特別な人間なんだ、脚光を浴びるべき人間なんだという根拠も無い自信や無駄な自尊心だけが一人歩きをし、
実際は取るに足らない平均以下の能力の人間であることを省みようとしなかった。
そういった大いなる勘違いが今の自分を形成させたといっても過言ではない。
普通に高校生活を送り、普通に大学に通っていればこんなことにはならなかっただろう。
『自分の好きなパーソナリティに名前を読んでもらいたい』一心から始めた投稿で、
『自分の生きた証を残したい』が為に筆を取った投稿で、
あれほどまで人生が変わるとは当時は思いもしなかったのだから。
番組内で自分が名指しでいじられたり、投稿がそこそこ読まれたりしたことで芸能人のような扱いを受け、
そんな地位が次第に定着していったことがとても非日常的で、とても不思議な心地だったが、
自分の夢が叶ったようでこの上なく嬉しく、また時にはそれに対する怖ささえもあった。
そういう夢物語に自分という人間が浸っていることの恐怖感があったにしろ、それがとても幸せなことに間違いは無かった。
ところが、そういった非日常的な空間が当たり前になり、居心地の良さを知った人間がふとした瞬間に日常的な空間に戻るとどうだろう。
言うまでも無く戸惑いやブランク、日常と非日常とのギャップに悩まされることだろう。
よく、一度脚光を浴び、チヤホヤされると、そうでなくなったときに社会が嫌いになるというが、
自分もまさにそうだった。
社会に出てから歪んだ自尊心が幾度と無く他人や現実との衝突を生み出した。
もう数え切れないくらい。
いつまでもあのときの自分であるわけが無いのに、今も尚、非日常的な空間が忘れられず、すがり続けている。
傍から見ればとても滑稽なことだろう。
努力を止めた今も、栄光ともとれないちっぽけな過去にとらわれ続けているのだから猶更。
正直、自分は世の中を甘く見過ぎていた。
何でも自分の思い通りになると根拠も無く思っていたし、
何でも自分が脚光を浴びる側の人間だと思い込んでいた。
そんなのだから、平凡な人生さえも送れないのだろうなと思う。